Profile

 

Profile

平井なぎさ Nagisa Hirai
資産形成アドバイザー

1990年生まれ。横浜出身。”知らないと損する大人のための資産形成講座”講師。2013年、大学を卒業後、私立高校の教員として浜松へ。2015年、某スマートフォンのトレーナーとして全国の店舗へ赴き、個別〜数十人単位での研修を担当。満足度アンケートNo.1講師となる。2016年、金融関係の仕事に就き、お金や保険に対する日本の現実を目の当たりにし、2ヶ月に1度は国際金融都市へ。日本とは全く異なる"考え方"や"知識"を学ぶ。2018年。”学校の先生”という場所を離れ、トレーナー・金融業界を経た経験を活かし、”知らないと損する大人のための資産形成講座”を立ち上げる。少子高齢化の日本を”お金が働くことで日本を豊かに”をヴィジョンに、”先生”として本来在るべき姿を発信している。

Story

7月7日15時過ぎ

七夕を祝うマーチングバンドのパレードが病院の近くを通った時、この世に産声を上げる。

やりたいことはやるチャレンジャー

変化をあまり好まない物静かな父親。一方で仕事にPTA活動と、物事を器用にこなす母親。共働き家庭で、生まれてすぐ病気が判明した妹の療養もあり、保育園の先生といつも掃除をしながら親の迎えを待っている子どもだった。

幼少の頃から、これ!と思ったら反対も押し通すチャレンジャーで、親にも先生にも臆せず行動。幼稚園に通いはじめた頃、母からの勧めでピアノを始める。これが音楽との出逢いである。

楽譜の読み方をきちんと習得せず続けた結果、当然ついていけず。発表会の練習でちょっかいを出してきた同級生に仕返しした結果、周囲の前で親に怒られる理不尽な感情とがリンクし、しばしフェードアウト。なにかを始めてみたら?という母からの言葉で、小学校のマーチングバンドを目にする。

実際に見学すると演奏者のコスチュームが決して可愛いとは思えず引き気味に。しかし、カラーガード(マーチングバンドにおいて、フラッグなどの手具を用い、視覚的表現を行うパート)のコスチュームが可愛らしく心惹かれた。また、楽譜が読めなくてもできるのでは⁈という安直な理由から、マーチングの世界へ。娘の活躍を願う母親の学校への献身的な働きかけもあり、6年生の時に学校史上初の関東大会へ出場。数千人は入る大きな会場でパフォーマーとしてデビュー。


見た目は子ども。中身は大人。

進学先の中学校にはマーチングバンドがなかった。幼少の頃から一緒にスイミングスクールへ通っていた親友が中学受験。進学先でガードを始めるとの連絡を受ける。自分もガードを続けるならば、地元の社会人チームに所属する以外、選択肢はなかった。

中学校では、より良い成績を取るため先生に媚びを売る生徒、それに気づかない先生たち。カーストで上位にいるために立ち位置の強い人にゴマをすりながら、内心では見下すような同級生に囲まれている内に、狭いコミュニティに必死にしがみつく姿がバカらしく思え、学校への意欲は薄れていった。

そして社会人が在籍する高い技術力を持つ100人超の団体に、無名の小学校からたった一人で飛び込んできた自分を理解してくれる人は当然少なく、俗に言う、体育会系あるあると言えばそれまでだが、毎日泣きながら練習へ行き、泣きながら帰る日々がゆうに一年半以上は続いた。

トップレベルの団体について行くには、1日たりとも休むことはできなかった。

平日は学校、土日は社会人のコミュニティで過ごしていくうちに、 周囲からは”子どもっぽいのか、大人っぽいのか”微妙な立ち位置にいた。逆に複数のコミュニティに属していた関係で”学校が全て”である一般的な学生とは大きく違う感覚があり、度重なる学校不信から一時期、元気に自主休校。笑

そんな中で心の支えになったのは 、マーチングバンドの先輩。

気配りと思いやりに溢れ、自分を気にかけてくれた。先輩は違うパートだったにも関わらず、誰よりも先に"なぎちゃん上手になったね"と声をかけてくれた。

”立派な先輩”になって、先輩へ恩を返そうと勝手に決意。以降10年間、大学を卒業するまでこの団体でガードを続ける。ひたすら練習に励む日々。 思い出したくもないくらい、たくさんの苦節を経てアッパーチームへ。また決して大きくはないが、多少のソロパートを踊ることもできた。MVPは2度受賞。自分の写真が大会のフライヤーになったこともあった。そんなこんなで最終的には自分の居場所もでき、チーム内でも一段落することになる。しかし日中は学校。終業後は水泳、習字、英会話、2つの塾、陸上を掛け持ちする超多忙なスケジュールに加え、 ポジションを失わぬよう、ガードの練習も手を抜くことができない状況下で、高校受験を迎える。

幸い、マーチングバンドの大人達を通じて、偏差値の高い学校へ進学することが良い人生に繋がるとは思えなかった。また高校では、人間関係をやり直したいと思い(当時は学区制があり、住んでいる市外への受験枠は7%だった)が、それでも知り合いが誰もいない市外の高校を受験。


"できる" が自信に

商業高校へ。中学とは異なり、今を楽しく過ごそうとする裏表のない素直な同級生に、人情があり個性的な先生方に囲まれ、楽しい学校生活を送る。初めて”簿記”を学ぶが、"資産"と"資本"の違いが分からず、はやくも躓く。しかし自分から先生に質問し理解したことを友人たちに教えると、友人たちが学年上位の成績を残すようになった。

そこで感謝された経験から、人に教えることに強みがあるのではないかと実感。

「先生いいかも」

中学ではオール3程度の評価が、高校ではオール5。そして学年1位の成績を収められるようになっていた。自分がそんなに変わったとは思えなかったが、周りの環境が変わるとこんなに変わるのか…と、子どもながらに感じていた。

そして今まで何事においても、中々評価されないことが多かった中で、”できた”という体験は自分に自信と可能性を示してくれるものであった。

またマーチングでは夏の期間を利用し本場アメリカへ。米国開催の世界大会、DCI(ドラムコーインターナショナル)の”indivisual”(ソロパフォーマンス)のコンテストへ。日本から遠く離れた地。一人で片言の英語でなんとかエントリーを済ませ、踊ったその曲は、2005年に上映されたハリウッド映画”SAYURI ”。 厳しい生活の中で人気芸者に成長していく姿を描かれた同作品は、幼少から習い事を掛け持ち、周囲からの逆行の扱いにも負けず、自分の可能性を信じてくれる人達のために動き続けてきた。

そんな自分と映画の主人公とを重ね、生き様を表現するようフラッグとダンスだけで表現。エントリーにあたり、歳も近い他のメンバーと同じフラッグ以外の手具も使える部門で出るよう、コーチに言われていた。しかし歳も近い女子の中で”点数”がつけば、後々面倒なことになる。そんなことに”SAYURI”が巻き込まれるのは嫌だった。コーチの反対を押し切って、一人別部門でエントリー。音に身体が乗るというよりは、魂が音に乗るようなそんな感覚で踊りきった。スコアも想定以上に良く、オーディエンスからのあたたかい拍手や感想も嬉しかった。何よりも一人でできた、やり通した経験は自分に大きな自信をくれた。

その後、指定校推薦で大学へ。籠るように経営学と教育学を学ぶ。勉強をすること、教養を得ることは自分の可能性を広げていくことを実感し学ぶことの楽しさに繋がっていった。


相手があっての自分

教育実習で必要な単位を手違いで落とす絶望的な事態。諦められるはずもなく、母校に頭を下げ急遽、社会科から商業科での滑り込み実習。そんな最中に発生したトラブルも含め、ド不安定な状態で実習が始まる。

実習担当の先生から ”子どもがいるから先生がいる。先生がいるから先生になるのではない。” という教育哲学をきく。 とにかくがむしゃらに自分を突き進めてきた経験が多かった中で、相手があって自分がいる”立ち位置”を初めて知り、私情のトラブルを含めた自分都合で動くのではなく、相手ありきの言動。その思いやりの深さに感銘をうける。

また先生という仕事は、どんなに落ち込むことがあっても、子どもたちの健気な姿にケロッといつも通りの自分に戻ることができた。常に自分の力でモチベーションを上げてきた、今までとは対称的なものであった。

ビジネス基礎の科目を通してお金に関する、知るべき、教えるべき内容に触れ、興味をもち、自分なりに工夫した授業をしようと試みたが、カリキュラムに沿わないとの判断でお蔵入り。教えたいことと、学校で教えられることとのギャップを肌で経験する。


先生としての時間

全国転勤がある私学の先生になった関係で、2013年4月から縁もゆかりもない出世の地、浜松へ。先生一年目、学校全体として大きな人事異動があり混乱を極めていた。一年目から担任を持たせてもらえた環境だったが、次から次へと問題が噴出。子どもたちを巡って夜中の3時まで、会議が続くこともしばしばあった。いざ先生として張り切ってスタートした一年目は、とてもとても、美談で終わるような話ではなかった。

なんとか迎えた二年目のクラス方針は、”無理にクラスをまとめない。”

私はチャーハンを例えに出し、パラパラだからおいしく、無理におにぎりにしようと握ってもうまく握れない。普段は各々のカラーで。しかし、"クラスとして"となった時、ここぞと美味しいチャーハンになればいい、と。きっとHRでこれを聞いていた子どもたちは、"先生何いってるんだろう笑"と思っていたと思う。笑

そんなこんなで、子どもたちに想いを伝えれば、それだけ応えてくれるように少しずつなっていった。合唱コンクールでは、数百人は入る大きなホールで、肩を組んで、少ない人数の中、堂々と明るく、そして健気に歌う子どもたちの姿勢が、多くの観客から涙を誘う異例の合唱となった。スポーツ大会のドッチボールでも優勝。英語の語彙力テストは、No. 1クラスに。個性が光る子どもたちで、日々笑ったり泣いたり喜怒哀楽を共にしてきた。そんな愛すべき子どもたちを前に一人、悩んでいた。


教育者としての在り方

学校についていけずに挫折していく子どもたちもいた。 学校は子どもたちを罰したり、篩にかけるところなのだろうか?一人一人の先生が子どもたちに歩み寄り、可能性と希望をもたせ、子どもたちが自分で前進し続けることができるように、導いてあげることが先生の在り方ではないのか。

いい成績を取ることではなく、偏差値の高い大学へ進学することでもなく、一流企業に勤めるでもない。この社会で生き延びるためには"考え方"の武器をもつことの重要性に気付いた。


本当に伝えたいこと

子どもたちとの人間関係が深まれば深まるほど、学校で本当に教えたいことが伝えられない葛藤も増していった。そんなモヤモヤを抱きながら、何気なく参加した資産家の経済セミナーに衝撃を受ける。社会人として最低限のマネーリテラシーは勿論、 知っているか知らないかで大きな差が生まれる、自分そして未来の家族や周囲にも影響を与えるコンテンツ。

そこで自分が実習生としてお蔵入りしていた構成が一気に掘り起こされ、 セミナーでメモした内容を、浜松へ戻っては自然と子どもたちに教えていた。その時が一番自分らしいと確信していた。そのセミナーのスピーカーは、 教職を持っていない。"学校"という決められた場所もない。 自分の好きな場所で、好きな人に向けて話し、誰からも制限されることもなく、 本心で大切だと思うこと、伝えるべきこと、知っておくべきことをありのままに発信していた。

資本主義の社会で生きていくためには、経済の基本的なルールを知っておく必要がある。自分は”学校の先生”になりたいのではなく、それはあくまで手段の一つに過ぎなかったことを自覚する。


未来への決断

子どもたちが大好きだったけれど、一人一人の夢と幸せを思うと、 何が正しく、何が良いのか、常に目に見えることと世の常識を疑うことが必要だった。こうしてみると変わってしまったと感じる人もいたかもしれない。しかし 、子どもたちのことを知れば知るほど、 本当にやるべきこと、必要なことが見え、気付かされたことが増えていった。

そのことは教育実習時の教育哲学 ”子どもたちがあっての先生”はブレていない。 ”学校”の先生としてできることを精一杯務めるか、”学校”という枠にとらわれず本来在るべき姿を実現をするため、自ら道を開くか。大いに悩み考えた結果、学校を去る決断に至る。


君と誓った約束乗せていくよ

こども達の卒業を見送れなかったことが何よりの心残りであったが、旅立つ子どもたちに向けて送った祝電。それは、"これからの人生において大きな決断をするのに伴い、 不安になったり、落ち込んだり、世間は貴方に対して反対したり、冷たいことを言ってくるかもしれない。いろんな壁にぶち当たることもあるかもしれない。 そんな中でも、のみ込まれることなく、幸せだと思えることを選べるみんなであってほしい。社会的な成功が全てではない。みんなが成幸で在り続けられるように。"と。

学校のカリキュラムでは教えられなかった、 社会で生きていくために本当に必要とする、”考え方や捉え方”、”本質”を 一生涯発信し続け、 そして学校でもない、職場でもない、”幸せ”を感じるあたたかな環境をつくり続ける。先生として在るべき姿を全うしていくことを、 子どもたちと自分に誓いをたて、成幸の実現を志に、現在に至る。

end